2005.11.27 No.1710


「にしきた九条の会」が憲法学習会開催、 70 名が参加

衝撃の加害体験、元兵士が語る「大東亜戦争」の真相

 日本と世界の平和な未来のために憲法を守るという一点で手をつなぎ、一人ひとりができる努力をすぐ始めようと、結成された「憲法九条を守ろう!姫路にしきたの会」(略称「にしきた九条の会」)が十月三十日、姫路市花の北市民広場第3会議室で、「憲法改悪を許さぬ運動を」︱加害者としての戦争体験から︱と題して、山陰・中国帰還者連絡会副代表の鹿田正夫氏を講師に招き憲法学習会をおこない、定員50名を大きく超える70名が参加しました。

 集会は開会挨拶を兼ね石原紀久子さん(「にしきた九条の会」呼びかけ人、DV支援ネットひめじ)が司会し、岸本守氏(同事務局、平和遺族会)が次のように講師紹介を行いました。

 鹿田正夫さんは、今年米寿で島根県浜田市在住。1918年島根県出雲市多伎町で出生され、1941年12月1日浜田西部第三部隊入隊後、翌年2月から中国の華中湖北省当陽県在第39師団第232連隊で約三年間戦闘に参加し、1945年6月、満州の四平街で敗戦(陸軍少尉)。同年9月から50年7月までシベリアで強制労働のあと56年8月まで中国撫順戦犯管理所に戦犯として抑留されるも中国軍事法廷の寛大政策により不起訴、釈放され同年9月、15年ぶりに帰国。1957年5月、中国帰還者連絡会を立ち上げ全国委員として反戦平和・日中友好運動で活躍、1981年ごろから侵略戦争の加害体験を語りつづけ、1988年に撫順の記念博物館中庭に「謝罪の石碑」を建立、現在に至ります。

 鹿田氏は、24歳で1941年(昭和16年)現役入隊後、はじめに、当時の軍隊について初年兵教育の目的が人間性の抹殺であり、上官の命令は絶対服従の朕(天皇)の命令であること、人殺しのできるロボット人間を作り、他民族蔑視による「日本民族の優越性」の教育、まさしく人間から「鬼への道」であったことを明らかにしました。1943年12月湖北省当陽県白陽寺における三光作戦「殺しつくす、奪いつくす、焼き殺す」の生々しい実態を報告し、侵略戦争の「加害者としての責任」を痛恨の思いを込めて語りました。原爆被害など被害者の立場からの平和運動に比べ、加害者の立場からの平和運動は戦争体験者が少なくなっており貴重になっていること、なんとしても九条はじめ憲法改悪を許さぬ運動を大きく盛り上げる必要性を訴えました。

自民党が「新憲法草案」を決定憲法 9 条 2 項を変え、
日本に「自衛軍」を明記
侵略戦争の反省(前文)と戦力不保持(2項)を削除

 自民党は十月二十八日、新憲法起草委員会(委員長・森喜朗前首相)の全体会議と政調審議会、総務会を相次いで開き、党の「新憲法草案」を決定しました。結党五十年に向けて作業していたもの。政権党が初めて全条項にわたる改憲案をまとめたことで、憲法改悪の動きは新たな段階に入りました。

 改憲案は、前文から「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」とした文言を削除し、侵略戦争の反省や平和的生存権の規定を消し去っています。一方で、国民に「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を求めています。また、「自主憲法」であることを強調する一方、「象徴天皇制は、これを維持する」としています。

海外武力行使の「歯止め」はずす
  改憲案の最大の狙いである九条については、「戦争放棄」の一項はそのままにしたものの、「戦力不保持」と「交戦権否認」を定めた二項を削除し、海外での武力行使に対する「歯止め」をはずしました。そのうえで「九条の二」を新設し、「自衛軍の保持」を明記。自衛軍の活動として、「国際協調」のための活動、「公の秩序維持」の活動などをあげ、海外派兵を可能にしています。司法の項目で、軍隊の規律維持や逃亡兵を処罰するのに必要な軍事裁判所の設置を規定しています。

 国民の自由と権利には、「公益及び公の秩序に反しないように・・・行使する責務」を負わせ、基本的人権を規制。国や地方公共団体の宗教的行為については、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」を超えなければ容認する規定に変更され、首相の靖国神社参拝を容認する内容となっています。

 憲法改正については、国会の発議要件を衆参それぞれ過半数(現行三分の二以上)の賛成とするなど緩和。今後の改定を容易にしています。